1回目:クリエイター(製作者)とオタク(消費者)の関係
どうも、たかしです。
クリエイター(製作者)とオタク(消費者)の関係について、
【芸術】と【デザイン】の違い
という視点から書いてみたい。
先に結論を言うと
オタクを甘やかすと、市場が縮小して、業界に金・才能が流れなくなって、お互い死ぬ
という話を書くと思う。
今回の第一回の総括としては
物作りにはデザインか、芸術かの方向性があり、そして、クリエイターはそのどこかにあって作品を作っているが、
その上で
デザインメインでマーケット主導の作品(アニメ・漫画・ゲーム)を作れば、それでいいのか!?
という話を書いていく。
では、話を始めよう。
①芸術とデザインの違い
【違い】
目の前に解決すべき問題がある、つまり、金になるマーケットがある
それを”狙う”か、否か
これだ。
狙うなら、デザイン
狙わないなら、芸術
②デザインとは何か
これでは訳わからんだろうから、デザイン・芸術の順で掘り下げよう。
まず、デザインというのは、解決の志向を持っている。
つまるところ、何か問題があり、それを解決する為に、デザインがあるのだ。
例えば
【問題】
ブラウザにおける”前のページに戻る、という動作”をどうユーザーに伝えるか
【解決】
←マークをボタンとして設置する
【結果】
ユーザーは一目で、
「あ、このボタンを押せば、前のページに戻れるんだな」
と直感的に理解することが出来るようになった。
これが、「UIデザイン」という一デザイン分野における、問題と解決の過程だ。
そこに誰かが困っている問題があり、それを解決する。
そのソリューションの質(どれだけ顧客を救ったか)に応じて、報酬がある程度決まってくる。これがデザインというものだろう。
③芸術とは何か
対照的に
芸術というものは、問題意識はあっても、解決しようとはしていないことが多い。
多少偏見はあるだろうが、芸術家というものは往々にして、自分の好きなものを見る人関係なく表現するからだ。
その結果
「何を伝えたいのか、さっぱり分からん…」
というような、視聴者・体験者置いてけぼりショーが生まれる。
「何なんだよ、これ」
我々が文句を言ったとき、彼らはこう言うだろう。
「俺が分かればいいんだよ!!!」
「これが分からない奴らには、芸術がわからんのだ!!!」
と。
つまるところ、問題を解決する気もないし、市場(彼ら消費者)を狙う気もない。
表現欲求に方向はなく、ただ爆発している。
そう、
”芸術は爆発だ!!!”
なのである。
④クリエイターの定義
では、よく耳にする『クリエイター』という言葉はなんだろう。
今までの話に当てはめるならば、これは芸術家・デザイナーの両方を含む。
つまり、クリエイターは芸術・デザインという二つの相反する方向性の≪間のどこか≫にいる。
なので、例えば、この二つの間に立つ者もまたクリエイターだ。
「俺の作品を評価しないなど、奴らは馬鹿だ!! 何でだよ! 評価してくれよおおおお!」
こいつのことだ。
⑤クリエイター(製作者)とオタク(消費者)の関係
さて、長々と定義を書かせて頂いたが、ここまでで、物作りにはデザインか、芸術かの方向性があり、そして、クリエイターはそのどこかにあって作品を作っていることが一応分かって頂けたと思う。
以下、本論からは、そんなクリエイターと、オタク=消費者である市場との関係について論じていきたい。
では、突然だが、『天元突破グレンラガン』というアニメがかつてあった。
しかしながら、このアニメ、4話が大きな批判の的になった。
その理由は様々あるが、”作画崩壊” ”キャラ崩壊” ”ギャグがつまらん”などだ。
”作画崩壊”は、1~3話の絵と、4話の絵を比較すると、理解出来る。
左3コマが、1~3話まで
右2コマが、4話だ。
確かに、かなり作画が違うことがお分かり頂けるはずだ。
実際、以下のブログにどう違うのかの指摘があるので、引用してみる。
グレンラガン4話~作監の個性が受け入れられない時代 - 近日閉店!大匙屋
Aパートからカミナによるシモンへの体育会的なノリのシゴキ演出があるが
アンバランスな輪郭線の引き方や陰影、アオリ重視のカメラワークなどは
小林治本来の個性というより、確かに70年代スポ根アニメのノリに近い。
小林治とは、4話を担当した作画監督のことで、彼が70年代スポ根的な絵や、ギャグを取り入れた訳だ。作画に時間が足りなかった訳ではなく、単純にこういう表現をしたかったのだろう。
その結果、今までの作画に慣れていた視聴者が、いきなりこの絵柄とノリに変わって驚き、前述のように批判が殺到した、という訳だ。
グレンラガンのクリエイター達は自分達が表現したかったものを表現して、視聴者から多くの批判を受け取り、それを受けて彼らもまた批判をし返してしまった。だから、結果として、この4話からは炎上騒ぎが起こった。
彼らは
俺らの作品はこうなんだよ! 理解出来ない奴がおかしい! ああいう奴らがいるコミュニティも駄目だ!
と批判した。
批判の際に彼らが引き合いに出していたものはアニメ業界の伝統だった。例えば、アニメ業界において、作画監督が変わった結果、絵柄やノリが変わるのは普通、それを”作画崩壊”、”作品崩壊”と批判するのはお門違いだ、というものだ。
つまるところ、この話において、クリエイター達は、芸術家寄りだったのだ。
現在の視聴者、つまり、現在の【市場】は、この変化に適応していないことは明らかだった。だから、大量の批判が起こる。
作画監督の変更で変わった絵柄は受け入れられなかったし、キャラクターの個性も”改変”、ギャグも”時代錯誤”と言われた。結局、市場・顧客はもはや変化してしまっていたのだ。
このように視聴者を「顧客」と見るならば、クリエイター達の批判は的外れも良いところな言い訳でしかない。出てくる商品・サービスが彼らにとって良いか、悪いか、それだけがビジネスにおいては重要だ。市場の歓迎こそ、優れたデザインたる大きな証だからだ。
では、彼らがもしデザイナー寄りのクリエイターだったら、どうなるか。
ここにおいて、【問題】と【解決】とは
このようになるのだろう。
わかりやすく言うならば、「スタジオジブリをやれ!」ということだ。
宮崎駿が設定したキャラクターの作画・ノリ・演出・雰囲気を壊さないように、完全に監督の手足となる。監督の能力を最大化する為に、会社も存在する。
これがスタジオジブリをやれ!ということだ。
そうすれば、恐らく、現代の視聴者は4話を問題なく見られただろう。
今より、DVDやBDは売れただろう。オタク=顧客(市場)が歓迎するからだ。
もし、4話で見るのを辞めてしまった人が大量にいたのなら、これは投資に対する大きな機会損失と捉えられる。つまり、最後まで見れば気に入って、DVD・BDを購入した人もいれば、メディアミックスされた漫画を買った人もいる、CDだって買った人がいるかもしれない。話題性も出る。売れる。スポンサーが付く。金になる。
とにかく、儲かる。
しかし、それでいいのか
一つの作品とはまた、クリエイターを育てる場ではないのか?
クリエイターはそれで幸せか?
オタクはそれで幸せか?
村上春樹、プロデューサー・ディレクター、ゲーム…次回に続く。